梅津神楽
近年は実施を見合わせています。現時点、令和6年の実施の予定はありません。
室町時代の応仁元年(1467)、京都は足利将軍家の相続争いから内乱が生じ、文明9年(1477)までの11年の間、東軍と西軍に分かれて、いわゆる応仁の乱の戦乱に明け暮れました。
このころ、京都梅津(右京区)の里に住んでいた筑地氏は、一族を率いて都を落ち、信州飯田を経て深山に分け入り、この地にいたって村を開いたといわれます。(文化9年桑原藤泰著「はまつづら」より)
村を開いた筑地氏は、京の梅津にちなんで梅津と名づけ(後世梅地となる)氏神を勧請して自ら神主となり、その社前で奉納したのが梅津神楽の濫觴(らんしょう)と伝えられております。
梅津神楽は、梅地のこだま石神社、犬間の若宮神社の祭典の前夜祭に奉納されるもので、昭和31年から両神社隔年交互に行うようになり、昭和47年には静岡県無形民俗文化財の指定を受け現在に至っています。
奉納は両神社の氏子らが一年交代で演じてきましたが、過疎・高齢化で氏子の数が減り、平成15年(2003年)から梅津神楽保存会(会員約30人)が中心になり、毎年1月の第3土曜日に奉納しています。
若い後継者の育成を目的に地元児童が参加して、伝統の神楽の継承に努めています。
この神楽を伝承する梅地・犬間(いぬま)の集落は大井川の上流、接岨峡直下の小集落で、険しい山の中に住んでの山仕事や、焼畑農業を行って生計を立てていくことは今では考えられないような危険や不安がつきなかったことから、家内安全、無病息災と豊作を神に祈ったのです。
恵比寿大国の舞(2009年(平成21年)1月17日撮影)
恵比寿・大国が登場、五方に釣り糸を垂れ、五方から鯛を釣る。恵比寿・大国の舞は喜びを表現する舞といわれ、ユーモラスな所作は見る者の笑いを誘う。恵比寿は道浄に一人残り、翁(大助)を待つ。
翁の舞(2009年(平成21年)1月17日撮影)
翁(大助)は男根状の棒を腰に下げ、杖をつき背中に俵を背負って、ゆっくり会場客席を練ってから道浄へ上がる。
翁は「千道八ツ橋めでたいことよ」と歌いながら道浄を一回りしてから扇子を取り出し、「東西、東西、榛原郡本川根町字梅地谺だま神社において、御神楽のあるということを伊勢高天原にて承りはるばる見舞いに参りたる者でじゃる。縦に横に八重十文字に張ったのはな、恵比寿殿、千道、八ツ橋というものでじゃる。中の升型なるものはな恵比寿殿、大の杜に表したものでじゃる。よく手を込めて切るにも切ったが、飾るにも飾ったものでじゃる。これは、ここの神主森達雄殿の手作りであろうか。空には白蓋おのえの松に、鶴の楽遊びで、下には錦の八重たたみいろこの岩に亀の這い遊び、氏子繁昌さぞ氏神も喜びであろう。恵比寿殿、久しぶりの体面じゃて、昔話のひとつもしてわかれるとしよう。」
翁は恵比寿を中央に手招きして座り、俵よりみやげものをいろいろ取り出して見せ、恵比寿に日本国の成り立ちを説明する。
「そもそも大日本国の始まりはな、恵比寿殿、転地開かざるとき、たとえてみると鳥の羽の如く水に魚の遊ぶにも似たり。軽く浮くものは天となり、重く濁れるものは土となりたるものでじゃる。そのあわしなさけ、伊佐なみの命、国常立の命、天のとほした以て大海をさぐり給う。そのしずくの一つの島となる。淡路島という国、それより天神七代地神五代天皇人皇の始まり、それより人間相始まり進み進みて、今の世となりたるものでじゃる。いやめでたし、いやめでたし。」
宇須売の舞(2009年(平成21年)1月17日撮影)
ゆっくりとした流れのある舞で、五方を舞う。宇須売は荘厳に美しく舞うが、宇須売の裾を持つ従女は道化的に演じる。以前は、その年に嫁に来た人の服物を着用し、安産が約束されたといわれる。
梅津流太刀の舞(2009年(平成21年)1月17日撮影)
左手に白刃、右手に鈴を持った一人舞。ドウカガリ、大拍子、オロシの三部構成で五方をとって舞う。大拍子で五方のそれぞれに方膝を立てて白刃を激しく∞型に振って頭上で回転させる。その時、顔すれすれに白刃が動き、耳を切り落とすのではないかとハラハラさせる所作で力が入る。
金丸の舞(2008年(平成20年)1月19日撮影)
天の岩戸に出てくる手力男命を擬した舞。金丸面をつけた舞人が五方をとりつつ舞うが、道浄がケガレている怒り出し、次第に飛び上がったりして荒々しく激しく舞う。禰宜(ねぎ)がオリカケを持って道浄に進み、オリカケの浜水で道浄を清め、金丸を鎮める。
米の舞(2008年(平成20年)1月19日撮影)
ムシロが道浄中央に敷かれる。角盆には榊の葉に盛った洗米がのせてある。この舞はゴザ返しの舞ともいわれ、幣の舞が「ござつけの舞」ともいわれている点で考えれば、神返しの儀礼があるといえようか。「雨あられ、雪や氷とへだつれどとければ同じ谷川の水」と神歌を歌いながら、盆を頭越しに後ろへ握って米を撒く。五方へ同じ所作がくり返されて終わる。
大弓の舞(2008年(平成20年)1月19日撮影)
「桃の木の一つの小枝に弓張りて向こう矢先に悪魔もたまらず」大拍子の音曲で、神歌を歌いながら幣の舞と似た所作で五方に舞い、大弓矢を振り込む。次にやはり神歌を歌いながら五方に矢を放つ。中央は矢を放つ所作のみ。この演目で神楽舞は終了する。
ヘンバイ(2008年(平成20年)1月19日撮影)
特別な祈願がある年にしか行われない「ヘンバイ」の儀式。
伝承されている、あるいは、されていた地域は、川根本町では、梅地・長島地区、静岡市では、大川、清沢、夜打島、井川の閑蔵などが挙げられる。
大川村誌、あるいは清沢村誌によると、「ヘンバイ之れは最も重き事にに伝わりて大祭に限り行ふの定則なり」とあるが、実際には柿島と同様に、家屋の新築のときにも執り行われた。
晒木綿一反を、未申から丑寅に向かって張り巡らし、五つの角を作って星型を作る。ただし、梅地・長島地区では、その年の「あきの方(かた)」に向かって張り始める。
奉仕者全員が丑寅に向かって着座、七五三の太鼓で開始され、大祓いや祝詞が奉じられる。
斎主は、白の斎服を着用し、烏兜、猿田彦の面を付け、日輪のしるしを結びつつ、未申より丑寅に向かって踏み回り、未申に戻る。
このとき、拍子方は、笛、太鼓で胴掛りの曲を奉じる。一方五名の者が五つの角に付き、順に鈴を鳴らして道案内をする。
次に斎主は、刀を両手で携えて、踏み回る。そして大幣に持ちかえ一巡りしてから、星型中央に大幣を突き、それを中心にして、太鼓の音に合わせて、星型の周囲を未申の位置から右回りに一周する。
終わりに中央に座して、鳥兜と面を三方に納め、一同もとの位置に着座して再拝、拍手して終了する。
ヘンバイで使われる星型は、晴明判(せいめいはん)と言われており、平安時代に活躍した陰陽博士安部清明が編み出したとされる魔除けの呪符を取り入れたものといわれている。
天王の舞(2010年(平成22年)1月16日撮影)
須佐之男命(スサノオノミコト)建身方命(タケミナカタノミコト)弥都波能売命(ミツハノメノミコト)を擬すと伝えられる三人舞。この舞の特色は採り物が多彩で次々取り替えて舞うことで、五方に舞うことは三宝と同じ。
三宝の舞(2010年(平成22年)1月16日撮影)
左手に青黄赤の花筒、右手に鈴を持ち五方をとって舞う三人舞。青色の花筒を持つ舞人の烏帽子には青、黄色の花筒を持つ舞人には黄、赤色の花筒を持つ舞人には赤色のアヤエガサがつけられ、青はアメノミナカノシマの神、黄はカミムスビの神、赤はタカミムスビの神と呼称される。五穀豊穣、家内安全を祈願する。
神歌「三宝の花をほしくば京に御座れ京の真中に開いたりすぼんだり」
鬼の舞(2010年(平成22年)1月16日撮影)
笛の音は哀調ある名曲で、荒々しさは全くない静かな舞。この舞は「昔作物を荒らしたり、農民を脅かすなど多くの悪事を働いた鬼をこらしめようと、その鬼の子を鬼の目の届かぬ所へ隠してしまい、鬼といえでもわが子恋しさに涙にくれて方々を捜し歩く様子を表現する」といわれている。
八王子の舞(2010年(平成22年)1月16日撮影)
神歌を歌いながら四人が道浄に出てくる。右手に鈴、左手に白刃を持って、四角形を崩さないで時計回りに五方をとって舞う。八王子の舞は須佐之男命の子供たちの舞と伝承されている。
神歌「八王子や峰に峰にと思えども 今はふもとに御座やまします」
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更新日:2024年01月19日