田代神楽
平成21年9月13日、川根本町田代の大井神社境内において、田代大井神社祭典が執り行われ、「田代神楽」が6年ぶりに奉納されました。
田代神楽の創始年代は明らかではありませんが、言い伝えによると1189(文治5)年、成元成書、成近の兄弟がこの地に村を開き、大井川河畔の杉の根元に大井神社を建立。成善が神職につき、神楽を奉納したと伝えられています。田代神楽は1985年に、県無形民俗文化財の指定を受けています。
川根本町田代の大井神社は、弥都波能売神をまつっており、創建された年代は不明ながら、一番古い棟札に1678年(延宝6年)の記述があります。
田代神楽は3年に1度の大祭りで奉納されてきましたが、地域住民の高齢化や田代神楽保存会員の後継者不足などの理由で前回の奉納は見送られ、保存会自体の存続も危ぶまれていました。保存会の方々は、伝統を守り伝えることは必要だと練習だけは欠かさず行っており、今年10月25・26日に国民文化祭「神楽フェスティバル」が川根本町で開催されることを契機に地域の若者や子どもも練習に参加するようになり、復活しました。
この日、奉納された演目は「幣の舞」、「狩人」、「駒の舞」の三演目。
駒の舞は、三人の舞い手が白、赤、青色の駒頭を持ち、右の手綱についている鈴を鳴らし跳躍を見せながら笛、太鼓に合わせて舞うもので、かつては7、8歳から15、6歳の田代地区の美少年が舞ったという田代神楽を代表する舞です。
今回、大役を担ったのは町立本川根中学校3年の山本健太郎君、高瀬大陽君、北川俊君です。三人は7月19日から週2回の練習を重ねてきました。
駒引きに連れられて舞台に上がった三人は、前屈みになり曲に合わせて駒頭を振って鈴を鳴らし、三角形を一度ずつ跳ねては移動し、次に横一列になって駒頭を振り、又三角形を作り移動し・・・と跳躍を繰り返し、息の合った華麗な舞をみせました。観客は舞の躍動感と迫力に見入り、大きな拍手を送りました。
田代神楽保存会の大村道久会長は「県無形民俗文化財にも指定されている伝統ある田代神楽を、何とか継承しなければならないというのは地域全体の思いでありました。今回、若い人たちにお願いし執り行うことができうれしく思います。今後も伝承を守り続け、芸能を絶やさぬよう一生懸命やっていきます。国民文化祭『神楽フェスティバル』にも、ぜひご来場ください」とあいさつしました。
〔レポートと写真:服部了士〕
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田代神楽「狩人」
狩人の面を付け、頬被りをし、白衣に水色の袴をつけた狩人が、右手に鈴、左手に弓矢を持って登場する。中拍子の楽で一舞舞うと、ネクタイ姿の村人がマイドウに現れ、二人して座り込み、問答を始める。狩人と村人の問答は即興で行われる。狩人が「いやー、腰痛くてこの前医者に行ってきたよ」などという挨拶で会話が始まる。村人は「今年は御陰で作りはよ。よくできただよ。だがよ、獣が出て、しょうがないずらよ。いっちょ、矢で追ってくれないかよ。おじいひとりではよ。大変ずらよ。東のほうに、殺生の上手なやつがいるかよ。」狩人はそれに答えて東の集落の名と殺生好きな者を上げ、次に西、南、北の集落の殺生好きな者を上げ、それらの者に応援頼むことになる。東から獣が出てきたと村人が告げると狩人は弓矢を射る真似をするが、腰砕けとなって射損じてしまう。「それではオジイ皆を連れて帰ってくれや」と村人が言うと、狩人は弓矢を持って五方に舞う。
田代神楽「駒の舞」
三人の駒引きに引かれて三頭の駒が当屋を出発し練りながら神社にやって来る。駒引きは、顔には滑稽な化粧をして頬冠りをし絆纏、股引き姿でなだれ込むように入って来る。柴燈火の回りを二周すると舞台に上がり、二、三周して駒引は退場する。
騎乗は、それぞれ白、赤、青色の帯状の長い布で鉢巻をし笠を冠り、黒い紋付きの着物、腰には、何本ものシゴキ帯を結え輪竹を吊るしそれに、近在の神社名を書いた紙を垂らし手にはそれぞれ白、赤、青色の駒頭を持っている。右の手綱についている鈴を鳴らしながらオロシの曲で舞台を二周する。曲は、ドウガカリに変わり互いに中央向きで前屈みになり曲に合わせて駒頭を振って鈴を鳴らす。三角形を一度ずつ跳ねては、移動しその度に同じ所作を繰り返して行なう。次に横一列になって同じ所作で駒頭を振り又三角形を作り移動しては、次の場所で同じ所作をする。以下大拍子、中の拍子、シミズと曲は変わるが、ドウガカリの時とは振り方が異なるが、四面を順に振って行く。最後にオロシの曲に変わり鈴を鳴らしながら舞台を三周して退場する。
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更新日:2017年03月29日