奥能登豪雨災害被災地を支援しました
被災地支援に参加した職員のレポートをご紹介します
本年1月1日に発生した能登半島地震の被災地を、9月21日から23日にかけ豪雨災害が襲いました。
奥能登地域を中心に河川の氾濫、土砂災害が多発し、15人の尊い命が奪われました。能登半島地震の復旧工事においても土砂崩れや仮設材の流出・破損などが生じ、地震によって建てられた仮設住宅が床上浸水する被害も発生しました。
本町において令和4年9月の台風第15号災害により、坂京、青部、田野口、下泉、文沢地区で住家を襲った土砂災害は記憶に新しいことと思います。この災害において復旧・復興に82日間にわたりご支援いただいた一般社団法人OPENJARAN(以下「OPENJAPAN」)が能登半島地震発生後の1月2日から能登半島で緊急支援を展開されており、現在は豪雨災害により家屋への土砂流入被害があった能登町を中心に活動されています。
この度、11月11日(月曜日)から15日(金曜日)の日程で、支援活動をするOPENJAPANの支援に伺いました。往路の道中、能登半島に入ると道路のいたるところが波打ち、電柱は真っ直ぐに立つ物を探すのが難しいくらいに斜めになっていて、地震の強さを知ることが出来ます。途中何か所も交互通行を繰り返しながら約7時間をかけ、OPEJAPANの活動拠点となっている能登町の能都広域勤労青少年ホームに到着しました。
建物全体をOPENJAPANが借り受けていて、全国からOPENJAPANの活動を支援する企業、個人からの支援物資が無造作に置かれ、寝泊りは2階の講堂のようなところで寝袋を使用していました。
到着翌日から3日間、私は本町で昨年度から何度も講演頂いている萬代好伸さんにお供し、能登町内柳田地区の家屋裏で土砂災害の発生した現場で泥掻きに明け暮れました。
私が作業をしたお宅は農家で、母屋、納屋、蔵で構成されていて蔵は地震の際、屋根全体が建物後方にずれており、期間中解体業者が下見に来ていました。大きくは小型重機で泥を取り、床下は届く範囲で鋤簾などの道具を使い人力で作業をしました。本町の台風第15号災害の時と同じ作業で、その現場が町内至るところに点在している状況です。本町水害時の復旧も82日間を要したことを考えるとこれから先も延々と作業が続くものと思われました。
最終日には、隣接する輪島市、珠洲市の状況を見て帰ってきました。
特にひどかったのは輪島市町野町(まちのちょう)でした。ここは地震動で山腹の崩れたところを水害に遭っており、地震により崩れかかった建物に濁流が流入した多重災害に被られたところです。町内唯一のスーパーは地震で被災しながらも1月2日から営業を再開、地域を支え続けてきたところに豪雨災害で背丈を超す浸水、11月11日から仮営業、私がうかがった時には浸水の爪痕も生々しい中で仮営業をされていました。また、ちょうど炊き出しをしていて、お昼時でもあったため地域の皆さんが寄って集まっていらっしゃいました。
OPENJAPANの肥田副代表に、能登町役場も案内していただきました。復旧復興のキーマンとなる職員の方々を紹介いただき、お話を伺ってきました。役場に伺いとても印象的だったのは、ロビーに掲出された能登高校書道部が書いた垂れ幕の一文でありました。
「能登に向かう県内他県ナンバーの多さに涙が出る 復興支援のステッカー横断幕に勇気をもらう 能登に届く全国からの応援に深い感動と感謝 ありがとう」
実質3日間、お手伝いにもならない作業でありましたが、この一文に出会い、行けてよかったと思えた支援でした。
危機管理課長 中村裕好
地震で傾いた電柱、道路も決して平らではない
OPENJAPANの活動拠点になっている能都広域勤労青少年ホーム
重機を駆使し土砂、泥を搬出する萬代さん
地震、水害を被った輪島市町野町の様子
能登町役場ロビーに掲げられた能登高校書道部の書いた垂れ幕
高校生がこのような気持ちでいることに胸が熱くなる
更新日:2024年12月03日